グリムロック連邦の首都ヴィンターヘイムは、常に鉄と石の匂いがした。

 黒や灰色の重厚な石造りの街並み。空には無数の鍛冶場から立ち上る煙がたなびき、街の至る所から規則正しい鎚の音が響いている。規律正しく、どこか冷たい空気が支配するその都で、将軍レオン・ヴァルトは兵士たちの厳しい訓練を視察していた。

 彼の隣には、銀髪をショートカットにした、男と見紛うほどに整った顔立ちの騎士、副官レナ・アストリッドが控えている。二人の間に言葉はない。しかし、その佇まいだけで、長年共に戦場を駆け、互いを深く信頼しあっていることが窺えた。

 だが、レオンの表情は晴れなかった。宰相ザフランが提唱する「エアデール侵攻」の大義名分――『厄災を呼ぶ魔女の出現』と『魔法資源の不当な独占』――に、彼は拭い去ることのできない疑念を抱いていた。

 やがて、王城からの召喚命令が届く。

 岩山にそびえる黒曜の王城。その玉座の間で、レオンとアストリッドは女王フローレンスの前に跪いていた。玉座には、圧倒的な美貌と威厳を放つ女王が座り、その傍らには、影のように宰相ザフランが控えている。

「して、将軍。進軍の準備は滞りないか」

 フローレンスの声は、美しい鈴の音のようでありながら、絶対的な支配者の響きを持っていた。

「はっ。いつでも御命令一下、出撃可能です」

「ザフランより聞き及んでおるであろう。エアデールに現れたという魔女の噂、そして奴らが我が国の交易路を脅かしかねんという事実。弱き者が力を持つのは罪よ。我らがそれを『解放』し、正しく導いてやらねばならぬ」

 レオンは、その言葉がザフランの受け売りであることを知りながら、静かに、しかし強く反論した。

「陛下、エアデールは軍備に乏しい国。大規模な侵攻は、虐殺となりかねません。加えて陛下、エアデールは資源大国であるギザリオン公国と友好条約を結んでいます。これを攻めるは得策ではありません」

 しかし、フローレンスは楽しそうに唇の端を吊り上げただけだった。「条約など、破るためにあるものよ」

 これ以上の諫言は無意味と悟ったレオンは、最後の手段に出た。

「――ならば、陛下。このレオン・ヴァルトにしばしの猶予を頂きたく存じます。噂の真偽…『厄災を呼ぶ魔女』が実在するのか、私が直接エアデールに赴き、この目で確かめて参ります」

 その提案に、フローレンスは面白そうにザフランを一瞥する。ザフランは、恭しく一礼した。

「よろしいかと存じます。将軍が直々に調査なされば、確かな情報が手に入りましょう」

「よかろう。将軍、そなたの好きにするがよい。だが、時間はかけさせぬぞ。すぐに良い報告を持ち帰れ」

「はっ!」

 レオンとアストリッドは、深く頭を下げ、玉座の間を後にした。

 城の冷たい石造りの廊下を歩きながら、アストリッドが、抑えきれない怒りを込めて吐き捨てる。

「ヴァルト将軍、あの女狐…!」

「アストリッド」

 レオンは、その汚い言葉を静かに、しかし厳しく遮った。「口を慎め。相手は我らが女王陛下だ」

 レオンは、ザフランの陰謀とフローレンスの非情な野心を憎んでいた。しかし、彼は知っていたのだ。女王が、その冷酷な仮面の裏で、かつて奴隷だった女性たちを解放し、人知れず支援していることを。いつしか見た、彼女の心からの優しい笑顔が、本当にただの演技だったのか…? その疑念が、彼にフローレンスを完全には軽蔑させないでいた。

 アストリッドは悔しそうに唇を噛み、それ以上何も言わなかった。

 レオンが偵察の準備のため執務室に戻ろうとした時、背後からザフランが音もなく現れた。

「将軍、お待ちしておりました」

 アストリッドを冷たい視線で下がらせると、ザフランはレオンに一枚の羊皮紙を差し出した。それは、女王の印璽が押された、公式の命令書とは別のものだった。

「これは…?」

「将軍の調査の結果、かの地に脅威ありと判断された場合の、特別な指示書です。女王陛下からの、将軍個人への密命とお考えください」

 彼がその羊皮紙を開くと、そこには目を疑うような命令が記されていた。

『侵攻地域の混乱を誘発するため、治癒師や町の指導者を優先的に排除せよ』

 レオンの身体が、怒りでわななく。

「宰相閣下!これは…騎士の戦いではない、ただの虐殺ではないか!」

 激しく反発するレオンに対し、ザフランは表情一つ変えず、薄ら笑いを浮かべた。

「戦争を早く終わらせるための、合理的な判断ですよ。これもまた、女王陛下の御心…勝利のため、ですかな」

 ザフランはそう言うと、踵を返し闇に消えていった。残されたレオンは、騎士道を踏みにじるような非情な密命を手に、ただ立ち尽くすしかなかった。

 ヴィンターヘイムの城門。レオンが、旅の準備を整え、たった一人で馬にまたがっていた。

「将軍!私もお供します!」

 駆け寄ったアストリッドが懇願する。レオンはそんな彼女に優しく、しかし断固として首を横に振った。

「いや、これは私一人の任務だ。お前には私が不在の間、騎士団を任せる。…頼んだぞ、アストリッド」

 その信頼の言葉に、アストリッドはそれ以上何も言えなかった。

 レオンは、忠実な副官と、彼を慕う騎士団の兵士たちに見送られ、一人、エアデールへと旅立っていく。

 真実を確かめるための、そして、自らが信じる正義と、下された非情な命令との間で揺れ動く、孤独な旅が始まった。