序章 / 第1話:招かれざる者

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」

 肺が灼けるように痛い。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打ち、耳元でうるさく鳴り響いている。

 アンナはただ、前へ、前へと足を動かした。

 木の枝が頬を鋭く掠め、赤い線が走るのも構わない。朝露と泥で汚れたドレスの裾が、茨に絡みついてビリビリと裂ける音も、もう気にならなかった。

 背後から、獣のような男たちの下品な笑い声が聞こえる。草木を踏みしだく音が、すぐそこまで迫っていた。

 どうしてこうなったんだろう。

 村はずれまで薬草を摘みに来ただけだったのに。ほんの少し、森の奥に入りすぎただけだったのに。

 思考は恐怖でまとまらない。ただ、捕まってはいけない。あの汚れた手で、二度と触れられてはいけない。その本能だけが、鉛のように重いアンナの足を突き動かしていた。

「―――きゃあっ!」

 疲労は限界だった。地面から突き出た木の根に足を取られ、アンナの体は宙を舞う。受け身も取れず、湿った腐葉土の上に派手に転倒した。足首に、骨が軋むような鋭い痛みが走る。

 もう、立てない。

 あっという間に、三人の野盗が彼女を取り囲んだ。リーダー格の男が、錆びた剣を抜きながら、獲物を見つけた肉食獣のような、卑しい笑みを浮かべて近づいてくる。

「ひっ…!」

 恐怖で喉が引きつり、声も出ない。アンナは、ここで自分の人生が終わるのだと、固く目を閉じた。

 男が剣を振り上げる気配がした。

 ―――その、瞬間だった。

 アンナは最後の力を振り絞り、痛む足を引きずって、無我夢中で横に転がった。身体が小さな坂を転がり落ち、ざざっ、と音を立てて茂みの中に突っ込む。

 息を殺し、茂みの向こう側へ身を滑り込ませたアンナは、息を呑んだ。

 そこは、それまでの薄暗い森が嘘のような、陽光がきらきらと降り注ぐ美しい湖畔だった。まるで世界から切り離されたかのような、静かで穏やかな聖域。

 そして、アンナは信じられない光景を目にする。

 湖のほとりに、一人の少女が座っていた。

 腰まで届く豊かな黒髪。同じ色の、黒曜石のような瞳。歳は自分と同じくらいだろうか。その少女は、まるで粘土をこねるかのように、湖の水面を指先で操り、小さな竜や鳥の形を作っては、飽きたように壊して遊んでいる。

 その傍らでは、金色の毛並みをした丸い小動物が、退屈そうに木の実をカリカリとかじっていた。

 少し離れた木の枝の上には、濡れたような黒羽を持つ一羽のカラスが静かに佇み、全てを見下ろしている。

 あまりに非現実的な光景に、アンナは自分が死ぬ間際に見ている幻覚ではないかと、本気で思った。

「見つけたぜ、小娘!」

 野盗たちも茂みを抜けて湖畔に現れた。彼らも一瞬その異様な光景に戸惑ったようだが、すぐにアンナに再び狙いを定める。

 カラスが「カァッ」と短く、警告するように鳴いた。

 黒髪の少女――マチルダは、追ってきた野盗たちと、助けを求めるように自分を見つめるアンナを一瞥する。しかし、その瞳には何の感情も浮かんでいない。

「……なんじゃ。人間が人間を追いかけておるだけではないか」

 心底どうでもいい、とでも言うように呟き、再び水遊びに戻ろうとする。

 絶望が、アンナの心を塗りつぶした。

 野盗のリーダーがアンナのすぐ背後に迫り、今度こそ逃がさないとばかりに、大きく剣を振り下ろす。

「―――っ!」

 アンナが再び目を固く閉じた、その時だった。

「マチルダ様ッ!」

 カラスの、まるで人の言葉のような鋭い叫びが響いた。

 その声に、マチルダは「……ああ、もう。面倒くさいのう」と、心底億劫そうに、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女が立ち上がった瞬間、世界が変わった。

 周囲の空気がビリビリと震え、穏やかだった湖畔に突風が吹き荒れる。

 そして、マチルダの黒かった髪と瞳が、一瞬にして太陽そのもののような、眩い金色に輝き始めた。

 神々しい。けれど、あまりにも無機質で、冷たい光。

 マチルダは、振り下ろされる剣に、ただ億劫そうに指先を向けただけだった。

 次の瞬間、アンナは耳を疑うほどの静寂の中で、信じられない光景を見た。

 野盗たちの身体が、声もなく、木の葉のように宙を舞い、森の奥深くへと吹き飛ばされていく。悲鳴すら聞こえない。あまりにも一方的で、あまりにも無慈悲な、力の顕現だった。

 金色の輝きがすうっと収まり、マチルダは元の黒髪黒瞳の少女に戻る。湖畔には、まるで何も起こらなかったかのような静寂だけが残された。

 アンナは、恐怖と安堵で震えながら、地面にへたり込んだまま、目の前の少女を見上げることしかできなかった。

 マチルダは、そんなアンナを感情の読めない瞳で見下ろし、静かに、そしてぶっきらぼうにこう告げた。

「…で、おぬしは何じゃ?」