はじめまして。Nomijam代表の林です。
先日、YouTubeで芸人・太田光さんが、若い頃に「この世界の何にも感動できなくなった時期があった」と語っているのを見かけました。さらに彼は、「感動を失うと、人は他人を大切に思うことができなくなり、それはつまり、自分の人生がどうなってもいいという感覚と同じだ」といった趣旨のことを話していました。
正直に申し上げると、私はこれまで一度たりとも「人生なんてどうでもいい」と感じたことはありません。
誤解を恐れずに言えば、多くのことが自分の思いどおりに進んできた人生だったと思っています。
たとえ落ち込むようなことがあっても、そばにはいつも信頼できる仲間がいて、優しく包み込んでくれる存在がいて、自分のやりたいことに打ち込める環境が整っていました。
考え方の異なる相手に対しても、私は誰であろうと、どんな肩書きを持っていようと臆することなく意見をぶつけられる強さを持っていたと思います。そのおかげで、幸運にも自分に不可能なことはないと信じることができました。
この感覚は、クリエイターとして活動するうえでも、大きな力になりました。多くの人は無意識のうちに他人と自分を比べてしまうものです。とくにクリエイターには繊細で内向的な方が多く、自らの表現と向き合うなかで、世界とのあいだに大きな壁を感じ、深く傷ついてしまうこともあると思います。
けれど私には、そのような葛藤がほとんどありませんでした。自分が納得できる作品を生み出せたなら、それがすなわち世界の完成だと感じられたのです。だからこそ、私は嫉妬という感情にも乏しく、それが音楽活動を続けるうえでプラスに働きました。
誰もが同じ土俵の上で戦っているなかで、私はどこか傍観者のように他人を見つめ、強い関心を抱くこともありませんでした。もしかすると、そうした私の態度に苛立ちを覚えた人もいたかもしれません。でも、当時の私にとって、周囲の反応すら観察対象にすぎなかったのです。
そのため、人がなぜ落ち込み、なぜ人生を悲観し、なぜ目の前の問題を乗り越えられないのか——その理由が、正直なところ理解できず、共感することも難しいと感じてきました。自分が満足のいく作品を創ることこそが、自分にとっての最優先事項であり、それ以外のことに興味を持つことはなかったのです。
そんな私に、あるとき友人が言いました。
「君は誰も愛していない。ひとりでステージの上に立っているだけだ」と。
それは、ある意味で表現者としてのひとつの完成形かもしれません。でも、私は今、それだけではいけないのだと感じています。
私は器用に人を気遣ったり、優しい嘘をついたりすることはできません。けれど、子供の頃に出会った音楽に、そして表現するという行為そのものに、今も変わらず心を震わせ、感動し続けている——それは確かな事実です。
この「感動」を、Nomijamの活動を通じて、誰かの心に届けていきたいと強く願っています。
歌:林健太郎
ピアノ・絵:小室高志