一行はついに、グリーンウィロウに足を踏み入れた。そこは山間の豊かな自然に囲まれた小さな町だった。
畑仕事をしていた人々や、道端で井戸端会議をしていた主婦たちが、アンナと半泣きのフィオナ、そしてその後ろに続く異様な一行に気づき、次々と手を止めていく。噂はあっという間に広まっていく。家々の窓から人々が顔を出し、物珍しそうに、あるいは警戒するように、遠巻きに一行の後をついてくる野次馬が少しずつ増えていった。
「なんじゃ、ジロジロと。品のないやつらじゃのう」
マチルダが鬱陶しそうに眉をひそめる。
「マチルダ様…」
アーサーが何か言いかけたのを、マチルダは視線だけで制した。
「わかっておるわ。しかし、よってたかってまるで蝿じゃの」
その嫌味な物言いに、アーサーは深いため息をついた。
アンナの家に到着する頃には、家の前には既に数人の町人たちが集まっていた。家の戸口には、穏やかだが芯の強そうな、理知的な目をした男が立っていた。アンナの父であり、今は農夫として生きる元学者のユーリだ。
「ソフィアさん!この子、魔法を使うのよ!アンナはきっと騙されてるんだわ!」
フィオナが、家から出てきたソフィアにすがりついて叫ぶ。その言葉に、群衆がさらにざわめいた。
その緊迫した空気を破るように、ソフィアはマチルダの前に歩み出た。彼女はマチルダの姿を見ると、警戒するどころか、ふわりと目を細めて微笑んだ。
「あらあら、可愛いお嬢さんね」
ソフィアはごく自然にマチルダに近づくと、その小さな頭を優しく、無造作に撫でた。
瞬間、アーサーの心臓が止まりかける。アンナも、息を呑んで固まった。
マチルダは、生まれて初めて自分より小さな存在に、何の含みもなく頭を撫でられるという経験をする。驚きで身体を硬直させたが、不思議と不快感はない。アンナに触れられた時と似た、温かい感覚がそこにはあった。
マチルダは、ソフィアの顔をじっと見上げ、尋ねる。
「…おぬしは、アンナの母君じゃな?」
ソフィアはにっこりと微笑んだ。「そうよ、マチルダちゃん。アンナの友達になってくれて、ありがとうね」
その言葉に、マチルダは少し考えた後、わざとらしく「うむ!」と頷き、小さな胸をぐっと張って「えっへん」と効果音がつきそうな態度を見せた。
「アンナの母君であれば、特別にワシを撫でる栄誉を与えてやるのじゃ」
その言葉を聞いて、アーサーとアンナは、ようやく止めていた息を吐き出し、ほっと胸をなでおろした。
その和やかな雰囲気を見て、群衆の中にいた、アンナたちの幼なじみであるノアが「なんだ、優しい子じゃん!」と無邪気にマチルダに近づこうとする。
だが、その気配を察知した瞬間、マチルダはノアの方へ振り向いた。その表情は完全に消え、アンナやソフィアに向けるものとは全く違う、氷のように冷たい眼差しが彼を射抜く。そして、低い声が響いた。
「…きさま、死にたいのか?」
「ひぃぃっ!な、なんでぼくはだめなの!?」
ノアは悲鳴を上げて一目散に逃げていく。そのあまりの変わり身の早さと、ノアの情けない逃げっぷりに、困惑していた町の人々の間から、思わずくすくすと笑いが漏れ、場の空気が少しだけ和んだ。
「さあさあ、立ち話もなんだから」
ソフィアが、一行を家の中へ招き入れる。
初めて人間の家に入ったマチルダは、清潔に整えられた室内を、まるで昆虫の巣でも観察するかのようにじろじろと見回した。そして、悪意なく、思ったままを口にする。
「ふむ。人間とは、随分と粗末な巣に住んでおるのじゃな」
その尊大な一言に、フィオナが「なんですって!」と再び激昂し、アンナは「マチルダ!」と慌ててマチルダの袖を引く。アーサーは「こらえ性のないお方だ…」と頭を抱え、「大変失礼いたしました!」と必死でフォローに回った。
しかし、ソフィアだけは「あらあら、ごめんなさいね、狭い家で」とくすくす笑い、全く動じない。「さ、どうぞ座って。お茶とお菓子を用意するわね」
ソフィアが用意してくれたお茶と、初めて見る「お菓子」を囲む、奇妙なティータイムが始まった。
ユーリが、静かだが鋭い声で口を開く。
「アンナ、一体森で何があったんだい?」
アンナは、野盗に襲われたこと、マチルダに助けられたことを話す。ユーリは冷静に耳を傾けていたが、フィオナが「本当に魔法を使ったのよ!」と付け加えると、少しだけ眉を動かした。
「ふむ…魔法を使う子供か。たまに聞く話ではあるな…天才児というのもいるらしい」
一旦はそう言って聞き流したユーリだったが、やはり気になったのか、アンナに優しく尋ねた。「アンナ、そのマチルダちゃんは、どんな魔法を使ったんだい?」
アンナは、悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに、満面の笑みで答える。
「うん!マチルダはすごいの!わたしを助けてくれた時、体ぜんぶが、金色にぶわーって光ったの!すっごくかっこよかったんだよ!」
「―――金色」
その言葉を聞いた瞬間、ユーリの顔から血の気が引いた。背筋に冷たい汗が流れるのを、彼は必死で隠した。この世界の人間なら誰もが知る古い伝承――神はその御力を解放する時、黄金色に輝く。
ユーリは「…少し、調べ物をしてくる」とだけ言い残し、足早に自室の書斎へと姿を消した。
居間では、マチルダが初めてクッキーを口にし、その「甘さ」という新しい感覚に、黒い瞳をまん丸くしている。
「なっ…なんじゃこれは! こんな美味いものを、人間共は毎日食っておるのか!?」
驚嘆の声を上げるマチルダを見て、アンナが嬉しそうに笑う。その様子を見ていたフィオナも、少しだけマチルダに気を許したのか、ぶっきらぼうに言った。
「まぁ…アンナを助けてくれたことには、感謝するわっ!」
そう言って、フィオナは自分の分のクッキーを一枚、マチルダの前に差し出す。マチルダがそれを受け取ろうとした、その瞬間。アンナの肩から飛び降りたチャチャが、目にもとまらぬ速さでそのクッキーをひったくり、自身の頬袋へと収納してしまった。
「あーっ!こらー!わたしの感謝を返しなさい、この食いしん坊!」
フィオナがチャチャを追いかけ回し、チャチャが「キュー!」と逃げ回る。それを見て、アンナとソフィアが笑い声を上げた。マチルダは、その騒がしい光景と、口の中に残る甘い余韻を、ただ不思議な気持ちで見つめていた。