その日は、アンナが家を飛び出した後、フィオナが顔を覗かせた。
「こんにちは、ソフィアさん。アンナはいますか?」
「あら、フィオナちゃん。アンナならさっき、あなたとピクニックに行くって出かけたわよ?」
「え…?」
その言葉に、フィオナの顔が強張る。ソフィアも、フィオナの反応を見てはっとした。
「…一緒じゃなかったの? …あの子、一体どこへ…」
アンナが母にまで嘘をついている。フィオナの不安は、確信に変わった。親友が、自分の知らない何かに、良くない何かに巻き込まれている。
「大丈夫です、ソフィアさん!わたし、アンナを探してきます!」
フィオナは力強く宣言すると、ソフィアが止める間もなく、アンナが向かった森へと走り出した。
気配を殺し、フィオナはアンナの後を追う。普段は二人で賑やかに話しながら歩く道を、アンナが一人で、しかしどこか弾むような足取りで進んでいく。その背中が、自分からどんどん離れていってしまうような気がして、フィオナは寂しさと焦りで唇を噛んだ。
やがてアンナは、フィオナも知らないような森の奥深くへと入っていく。不気味なほど静まり返った森に恐怖を感じながらも、アンナを一人にはできないという一心で、フィオナは追跡を続けた。
茂みの影から湖畔を覗き込んだフィオナは、息を呑んだ。
アンナが、見たこともない黒髪の少女と、まるで昔からの友達のように楽しそうに話している。傍らには、カラスと、金色の小動物がいる。
フィオナは、アンナがその少女のことを、親しみを込めて「マチルダ」と呼んでいるのを耳にした。まるで姉を慕うような、自分の前では決して見せない甘えた声色。フィオナの胸に、ちりちりとした焦燥感が広がる。さらに、そのマチルダという少女が指先一つで湖の水を操り、小さな魚の形を作って見せるのを、恐怖に目を見開いて見つめていた。
―――アンナは騙されている! 魔法か何かで惑わされているんだわ!
確信したフィオナは、茂みから飛び出した。
「アンナ! 離れて! その子は危ない!」
突然の親友の登場に、アンナが「フィオナ!? どうしてここに…」と狼狽える。
だがフィオナはアンナを無視し、マチルダを真っ直ぐに指差して叫んだ。
「あんた、アンナに何をしたの!? 化け物!」
「お嬢さん、落ち着いてください。我々はアンナ嬢に危害を加えるつもりは…」
「喋るカラス! やっぱり普通じゃない!」
アーサーの冷静な声は、パニックに陥ったフィオナには火に油を注ぐだけだった。いつもは人懐っこいチャチャでさえ、フィオナの敵意を感じ取り、警戒して「キーッ!」と威嚇するように鳴き声を上げる。
アンナは、マチルダを庇うようにフィオナの前に立ちふさがった。
「やめて、フィオナ! マチルダは化け物じゃない! わたしの、大切なお友達なの!」
「目を覚まして、アンナ! 一緒に帰るわよ!」
聞く耳を持たないフィオナは、アンナの腕を掴んだ。しかしアンナは、初めて親友の手を力強く振り払う。
「いや! わたしはここにいる!」
友人同士の醜い争い。自分を巡る、理解不能な感情のぶつかり合い。
それまで冷ややかに観察していたマチルダが、心底面倒くさそうに、静かにため息をついた。
その瞬間、湖畔の空気が氷のように冷え込む。マチルダの黒い瞳が、まるで光を全て吸い込む深淵のように変化し、無言のままフィオナを見据えた。それは攻撃ではない。ただ、絶対的な存在が放つ、純粋な威圧だった。
フィオナは、蛇に睨まれた蛙のように身体が凍りつき、悲鳴すら上げられない。
張り詰めた静寂の中、一本の矢が音もなく木々の間から飛来した。狙いは、恐怖で動けなくなっているフィオナだ。
「―――危ないッ!」
アーサーの鋭い叫びが響くよりも早く、キンッ!という硬質な金属音が空気を裂いた。
どこからともなく投げられた一振りの短剣が、フィオナに届く寸前で矢を弾き飛ばしていたのだ。矢は軌道を変え、すぐそばの木に深く突き刺さる。
「え…?」
アンナと、恐怖から解放されたフィオナが、短剣が飛んできた方向を咄嗟に見る。
そこには、あの黒髪の男が静かに立っていた。彼は刺客が潜む森の奥を一瞥すると、忌々しそうに「…チッ」と舌打ちし、一瞬だけマチルダたちの方に視線を向ける。
その視線は、「お前がいると、余計なものが湧いてくる」とでも言いたげだった。
フィオナの視線に気づいたのか、男はふっと視線をフィオナに向け、無言で人差し指を口の前に当てる。「静かに」と。
その直後、男の姿は音もなく消えていた。
後に残されたのは、圧倒的な恐怖と、理解不能な出来事の数々だった。穏やかだった湖畔の日常は、もうどこにもない。
アーサーは木に刺さった矢を調べ、低い声でマチルダに報告する。
「…これはグリムロックの兵士が使うものではありません。もっと別の…専門の暗殺者の矢です」
マチルダは、もはや木に刺さった矢には目もくれなかった。彼女の視線はただ一人、震えるフィオナに注がれていた。アンナに向けるものとは正反対の、氷のように冷たい眼差し。そこには、自身の聖域を乱した侵入者への、明確な敵意が宿っていた。
そして、アンナと初めて出会った時と同じ言葉を、しかし今度は侮蔑と不機嫌さを込めて、はっきりと投げつけた。
「…で、おぬしは何じゃ?」