魔女と憐れみの花
魔女と憐れみの花
真珠色の光を放つ紺碧の空には、柔らかな綿雲が静かに浮かび、陽光はまるで名匠の筆致のように、街並みを鮮やかに染め上げていた。ここは、絵画から抜け出したかのような美しさを湛える街、ポルト・ルミナス――。
人口五千人のこの街は、緑豊かな丘陵に囲まれ、穏やかな気候に恵まれています。丘の背後では、銀葉のオリーブの古木が風に揺れ、麓にはオレンジやレモンの果樹園が太陽を浴びて輝いています。
目前にはエメラルドグリーンの海が広がり、波は白砂の浜に優しく打ち寄せ、心地よい潮騒が響きます。
ポルト・ルミナスの朝は、活気に満ちた漁港から始まります。東の空が茜色に染まる頃、漁船が次々と帰港し、新鮮な魚介類が威勢よく競りにかけられます。市場は活気に包まれ、賑やかな声が街に響き渡ります。
街の中心にある石畳の小路には、古都の面影が色濃く残っています。カフェやシーフードレストラン、職人の工芸店が軒を連ね、テラス席では談笑する人々が見られ、芳醇なコーヒーの香りが漂います。
ここに暮らす人々は、陽の光のように明るく、海のように寛容です。迷える旅人には笑顔で道を示し、時には自宅に招いて温かいお茶を振る舞います。困っている人には、老若男女を問わず手を差し伸べます。
まさに地上の楽園のような場所です。しかし、その境界には、昼なお暗い森が広がっていました。
森の木々は天を突き、複雑に絡み合う枝葉が光を遮ります。足元は湿った落ち葉に覆われ、歩を進めるたびに沈み込むような感覚が伝わります。夕闇が迫ると、蝙蝠が舞い、森の奥からは梟の声がこだまします。
この森はいつしか「魔女の森」と呼ばれるようになり、人々はその名を恐れ、決して足を踏み入れることはありませんでした。
街の中心には、陽光を浴びた白壁と赤い屋根の病院が、まるで絵本の一頁のように静かに佇んでいます。
院内では、窓からの光が白壁に反射し、柔らかな輝きが静謐な空間を満たしています。待合室では、看護師が患者を励まし、医師たちは慈愛に満ちた眼差しで迎えます。そこには、温もりが満ちていました。
その病院の一室に、アンナという名の少女が入院していました。アンナは生まれながらに目が見えません。
誰もが憧れる美しい街に暮らしていても、アンナはその世界を見ることができません。それでも、彼女は鳥の歌、風の囁き、人々の声、廊下に響く足音、薬の香り、シーツの柔らかな感触など、五感を研ぎ澄ませて世界を感じ取っていました。
それら一つ一つが、彼女の世界を形作っていたのです。
ある日、アルバートという少年が病院を訪れます。彼は勇敢で正義感が強く、何よりも純粋な心を持つ、太陽のような少年でした。
母に付き添われて待合室にいたアルバートは、ふと病院内を散策し、偶然アンナの病室の前を通りかかります。
白いワンピースをまとい静かに佇むアンナ。その姿を見た瞬間、アルバートの心は強く引き寄せられました。
「天使がいる!」
透き通るような白い肌、儚げな表情に胸が高鳴り、思わず息を呑みます。
アンナは気配を感じ、不安げに声を上げました。
「だれかいるの?」
「う…うん。」
アルバートは照れくさそうに答えました。
こうして二人は言葉を交わし、少しずつ心を通わせていきます。それ以来、アルバートは毎日のように病院に訪れ、学校での出来事を語るようになりました。
友人たちと笑い合った日々、週末の湖での冒険。彼の語る話は鮮やかで、まるで一幅の絵画のようにアンナの心を彩ります。そして、アンナも次第にアルバートに心を開いていったのです。
そんなある日のこと――。
アルバートは、学友たちをアンナのもとへ案内することにしました。
最初に紹介するのは、がっしりとした体格のドルジです。クラスで最も体が大きく、その堂々とした体躯にふさわしく、心優しくおおらかな少年で、いつも明るい笑顔を浮かべています。
食べ物への愛情が人一倍強く、ポケットには常にお菓子を忍ばせています。その大きな笑顔は見る者に優しい印象を与えますが、ちょっぴり臆病な一面もありました。
次に紹介するのは、聡明な眼差しを持つヨハンです。やや小柄で、トレードマークの眼鏡をかけた彼は、いつも深い思索に沈み、本の世界に没頭しています。
その姿の中にも、少年らしい無邪気さが垣間見えます。ヨハンは難解な言葉を巧みに使いこなすため、いつしか仲間たちから「博士」と呼ばれるようになりました。アルバートもまた彼を深く信頼し、困ったときにはしばしば助けを求めていました。
アンナは、アルバートとその学友たちの間に育まれた深い絆を、手に取るように感じました。そして、アルバートたちが毎日のように病院を訪れ、学校での出来事や街の新しいニュースをアンナに伝えるうちに、彼女の顔には次第に笑顔が戻り始めました。
孤独に包まれていた彼女にとって、彼らはかけがえのない宝物のような存在となったのです。やがて、少年たちが少し大人びた頃、アンナはどこか寂しげな表情を浮かべながら、アルバートに静かに打ち明けました。
「こんなに素敵な友達ができたのに…。みんなと一緒に海へ行き、青い海や白い砂浜を感じることができないなんて…。みんなが話す夕焼けの美しささえ、私にはただ想像することしかできない。外に出て、野や山を共に歩くこともできない。私も世界をこの目で見てみたい。でも、それは叶わない…。私は色のない世界に閉じ込められているの…。」
アンナの言葉は途切れることなく彼女の胸の内から漏れ出し、目から大粒の涙となって零れ落ちます。
アルバートたちが楽しそうに話すたびに、アンナの心は次第に締め付けられるような痛みに包まれていきました。
皆と同じように、世界を見て、感じて、遊び、共に喜びを分かち合いたい。その、誰にでも与えられるはずの願いが、自分には決して届かないことを、彼女はひしひしと感じていたのです。
アンナの涙を見たアルバートは、胸が張り裂けそうになりました。自分が当たり前に見ている世界を、アンナは決して見ることができない。その事実は、彼に深い無力感を与えました。
「どうすれば、アンナを笑顔にできるんだろう…。」
言葉をかけるべきか、それとも何かしてあげるべきか――アルバートは何もできずに、ただ立ち尽くすことしかできませんでした。
確かにアルバートには、心強い仲間がいて、どこへでも行ける自由があり、その世界を楽しむことができました。
しかし、彼はそのすべてがアンナにとって永遠に届かないものであるという現実を目の当たりにし、何もできない自分にただただ苛立ちを覚えます。
どんな言葉も行動も、彼の心に浮かんでは消え、無意味に思えたのです。
その時、アルバートはおばあちゃんから聞いた魔女の森の話を思い出しました。
この美しい街の外れには、決して足を踏み入れてはならない深く暗い森が広がっているという話を。
魔女の森には、蛍光緑のキノコが夜空に向かって丸い傘を広げ、地面からぼんやりと光を放っています。
その幻想的な輝きは、まるで小さな妖精たちが森の奥でかくれんぼをしているかのようです。
夜になると、オオカミの遠吠えが森中に響き渡り、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をくすぐります。
その中に時折甘い花の香りが混じり、足元はぬかるんでいて、一歩踏み出すたびに靴が沈みます。
古木の枝が擦れ合う音は、まるで誰かが囁くようです。森全体が生きているかのように息づいています。
魔女はかつてこの街に住んでいた美しい女性でした。ある出来事をきっかけに魔女となり、森の奥深くにひっそりと暮らしながら、人々を誘い込み、二度と戻れなくすると伝えられています。
けれど、その伝説には続きがあります。
魔女だけが持つと言われる不思議な花を持ち帰れば、どんな願いも叶うというのです。
アルバートは、アンナの悲しそうな顔を見て、いてもたってもいられなくなりました。拳を握りしめ、心の底から叫びます。
「僕が、アンナの願いを叶えてあげる!」
そう言うや否や、アルバートは一目散に病院を飛び出しました。自転車に飛び乗り、力いっぱいペダルを漕ぎます。息を切らし、汗だくになりながらも、彼は必死に走り続けました。
やがて、仲間たちのもとへ辿り着きます。
アルバートは、アンナが泣いていたこと、そして街の外れにある“決して入ってはいけない”魔女の森へ行く決意を話しました。当然、ドルジとヨハンは反対します。
「ダメだよ!そんな危ない森に僕たちだけで行くなんて!」
ドルジは顔を真っ青にして叫びました。
「だめだ、アルバート。それは無謀すぎる。まずは森の周辺を調査し、安全なルートを探すべきだ。そのために、外周を歩いて地形を把握し、危険な場所を地図に書き込もう。図書館で魔女の森に関する資料も調べておいたほうがいい。」
ヨハンはそう言いながら、リュックから水筒を取り出し、アルバートに手渡しました。
「まずは、落ち着いて話そう。」
しかし、アルバートはどうしても落ち着くことができませんでした。彼はアンナと出会ってからの出来事を詳しく語り、彼女の悲しみや願いを伝えました。
「アンナは、僕たちの知らない世界に閉じ込められているんだ。僕は、どうしてもアンナを助けたいんだ!」
アルバートの熱い思いに、ドルジとヨハンは言葉を失います。しばらくの沈黙の後、ドルジが口を開きました。
「……わかった!僕も行くよ!」
怯えながらも、彼の声には決意が込められていました。
「まったく、お前は……仕方がないな。協力しよう。」
ヨハンはやれやれと肩をすくめながらも、静かに、しかし力強く頷きます。
こうして、子どもたちだけの冒険が始まったのです。
約束の土曜日正午、街の外れに集まった子どもたちは準備を整え、ついに魔女の森へと足を踏み入れます。
そこには、高さ10メートルを優に超え、大人3人がかりでも抱えきれないほどの太い幹を持つ巨大な古木が、まるで門のように立ちはだかっていました。
幹は歪み、まるで人が苦悶の表情を浮かべているかのようにねじれています。その表面には無数の傷跡やコブが浮かび、不気味な存在感を放っていました。根元には動物の骨が散らばり、子どもたちは思わず息を呑みます。
近づくだけで、森は異様な雰囲気を漂わせていました。ついさっきまでの勇気はどこへやら——子どもたちは急に怖気づいてしまいます。
ドルジはアルバートの背中にしがみつき、震える手でクマのぬいぐるみをぎゅっと握りしめました。ヨハンは額に汗を浮かべ、落ち着かない様子で周囲を見回しています。
「本当に……大丈夫だろうか?」
勇敢なアルバートでさえ、足が地面に縫い付けられたように動けなくなりました。それほどまでに、この森は恐ろしいのです。
「こ、怖くなんかないぞ……! 僕たちで、必ず魔女の花を持ち帰るんだ!」
アルバートは震える声で自らを奮い立たせました。
子どもたちは小さな体に勇気を振り絞り、一歩ずつ森の中へ足を踏み入れました。足元からは カサカサッ、バキッ、グシャッ という不気味な音が響き、一歩ごとに緊張が高まります。
湿った土の匂い、腐った植物の匂い。そして、どこからともなく漂ってくる甘い花の匂い。そのどれもが、子どもたちの心を不安でいっぱいにします。
しばらく歩くと、目の前が開け、木漏れ日が差し込む明るい場所に出ました。そこには色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが漂っています。美しい光景に、子どもたちは一瞬だけ恐怖を忘れました。
しかし、その安堵も束の間。再び森が暗くなると、不安はさらに膨らんでいきます。
アルバートは、おばあちゃんからもらった方位磁石を頼りに、道なき道を進みました。ヨハンは分厚い植物図鑑を片手に珍しい植物を見つけては目を輝かせ、危険な植物を見つけると素早く注意を促します。ドルジはお気に入りのクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、アルバートとヨハンの後を必死に追いかけました。
「もう帰りたい……」
そう思うほどの恐怖に駆られながらも、子どもたちはアンナのために勇気を振り絞り、少しずつ森の奥へと進んでいきます。
どれほど歩いたでしょうか。ふと気づくと、森の奥にぽつんと一軒の家が佇んでいたのです。
それは、まさしく魔女の家でした。
歪んだ三角屋根に、黒く塗られた古びた木の壁。奇妙な形をしたその家は、一見すると不気味でしたが、窓からこぼれる灯りはどこか優しく、心を落ち着かせるようでした。
周囲には異様な形の植物が生い茂り、色とりどりの花々が美しく咲き誇っています。
子どもたちは勇気を振り絞り、そっとドアをノックしました。
コンコン、コンコン。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか? 僕たちは魔女を探しています。」
しばらくすると――
キィ……
軋む音を立てて、ドアがゆっくりと開きました。
そして、老婆が姿を現します。
長い銀髪を後ろで束ね、黒いローブを纏ったその姿。深く刻まれた皺と鋭い眼光が、子どもたちを射抜きます。唇が歪み、にやりと不気味な笑みを浮かべる老婆。
「ヒッヒッヒ……よく来たね。さあ、おいで。」
ゴクリ……。
子どもたちは、とうとう魔女を見つけることに成功したのです。
アルバートは魔女の鋭い眼差しに思わず身をすくませ、ドルジは怖がってアルバートの後ろに隠れました。ヨハンは魔女の服装や顔を興味深そうに観察しています。
「ヒッヒッヒ……さあ、お入り。」
魔女が手招きすると、
ギィ……
再び軋む音を立てて扉が開きました。
家の中は薄暗く、壁には奇妙な絵画や剥製が並んでいます。暖炉の上では大きな釜が吊るされ、怪しげな液体がぐつぐつと煮えたぎっていました。
招かれた子どもたちは、怯えながらも声をそろえて元気よく言いました。
「お邪魔します!」
重厚な扉を開けてリビングに通されると、暖炉の火が燃える暖かな部屋の中央に、大きなテーブルが置かれていました。その上には、湯気を立てる美味しそうな料理が所狭しと並べられています。
子どもたちは目を輝かせました。焼きたてのパンからは香ばしい小麦の香りが漂い、濃厚なコーンポタージュはとろりと滑らかで、一口飲めば体の芯まで温まりそうです。色とりどりの野菜がたっぷり入ったサラダは新鮮でシャキシャキとしていて、見るからに食欲をそそります。
「ヒッヒッヒ……歩き疲れただろう。さぁ、お食べ。」
魔女がそう言うと、子どもたちは思わずごくりと喉を鳴らしました。確かに、森を歩き続けたせいで空腹は限界に達しています。しかし、目の前にいるのは伝説の魔女なのです。
アルバートとドルジはヨハンを見つめました。ヨハンは『絶対に、食べるな。』という鋭い視線を二人に向けます。ところが、とうとう誘惑に負けたドルジが、勢いよく料理にかぶりつきました。
「美味しい!なんだこれ!はじめて食べる味だよ!」
満面の笑みを浮かべ、アルバートとヨハンにも食べるように勧めます。それを見てアルバートも「僕も!」と言いながら料理にかぶりつきました。
ヨハンは二人を止めようとしましたが、結局、自分も食べてしまいます。魔女の料理はどれも絶品で、子どもたちは夢中になって食べ続けました。
すると突然――
「カァー!カァー!」
甲高い鳴き声が響き渡り、バタバタバタ! と羽音が聞こえました。
驚いて見上げると、天井から巨大なカラスが舞い降りました。鋭い爪を光らせ、妖しい瞳で子どもたちを睨みつけます。
「帰れ!ここはお前たちのような子どもが来る場所ではない!」
なんと、カラスが人間の言葉を話していました。
「なんだこの目つきの悪いカラスは!」
アルバートは驚きながらも、負けじと反論します。
カラスはプイと顔を背け、「ふん!下賤な人間どもめ!このアーサー様を誰だと思っているのだ!」と高らかに宣言しました。
「俺様は、マチルダ・フォン・エーベルバッハ=ツー=ウント=ツー=バイヒラーディング様のお側仕え、アーサー様だぞ!」
ドルジはカラスの大きさと鋭い眼光に怯え、「うわあああ!」と叫んでアルバートの後ろに隠れます。
ヨハンは眼鏡をくいっと上げ、興味津々にカラスを観察していました。
「ながくてよくわからん!目つきが悪い上に口の聞き方もなっちゃいない!なんだこいつ!」
アルバートは呆れたように言い放ちます。
すると、ヨハンが冷静にこう指摘しました。
「おい、アルバート。カラスが喋ってることにまず突っ込んだらどうだ?」
魔女は不気味な笑みを浮かべながら言いました。
「アーサー、およし。子どもたちはここまで来るのにだいぶ疲れているんだよ。さぁ、お前もテーブルにつきなさい。一緒にご飯を食べよう。」
魔女の口調は見た目とは裏腹に優しく、アーサーをテーブルへと誘いました。
カラスは鋭い爪でテーブルをガリガリと引っ掻きながら、子どもたちを睨みつけます。しかし、子どもたちは空腹のあまり料理に夢中でした。
ムシャムシャムシャ、ムシャムシャムシャ。
「美味しい!こんな美味しいご飯ははじめてだ!」
魔女の料理は、それほどまでに美味しかったのです。そんな子どもたちの様子を見ながら、アーサーは不機嫌そうにくちばしを鳴らしていました。
『ごちそうさまでした!』
満腹になった子どもたちは、魔女にお礼を言い、帰ろうと立ち上がりました。すると、背後から魔女の声が響きます。
「ところで、坊やたち。なぜこんなところに来たんだい?」
子どもたちは驚いて振り返りました。そうです、本来の目的は、魔女が持つと言われる不思議な花を手に入れることだったのです。
アルバートは勇気を振り絞り、魔女に頼みました。
「魔女さん、お願いがあります。あなたが持っているという不思議な花を、僕たちにください!」
魔女はアルバートの言葉を鼻で笑い飛ばします。
「ヒッヒッヒ…そんなものはないよ。願いが叶う花? バカなことを言うんじゃない。そんなものがあるなら、とっくに私が使っているさ。ヒッヒッヒ…。」
しかし、子どもたちの真剣な眼差しを見ると、魔女の態度が少し和らぎました。
「いったい、どんな願いを叶えたくてここへ来たんだい?」
アルバートはこれまでの経緯を魔女に話しました。
「なるほど。大切な友だちのために、大人も寄りつかないこんな場所まで来たのかい。いいだろう、一つだけ教えてあげよう。」
魔女はゆっくりと続けます。
「この街の東の山に『虹の谷』と呼ばれる場所がある。そこでは、1年に1度だけ、大きな虹がかかることがあるんだ。その虹の麓に、『七色の花』と呼ばれる虹色に輝く花が咲く。たった1年に1度だけね。七枚の花びらがそれぞれ異なる色を持ち、見る者を魅了するほど美しい。もし、それを見つけることができたなら…どんな願いでも叶うと言われているよ。」
魔女はにやりと笑い、指を一本立てました。
「いいかい? 大きな虹がかかる時を狙うんだよ。ちょうどいいタイミングだね。三日後の夜、満月が昇った翌朝だよ。ヒッヒッヒ…。」
アルバートは力強く頷きました。
「うん! 待ってて! 必ず持ってくるよ!」
そう言うと、アルバートは勢いよく走り出しました。
「待ってよ!」
食いしん坊のドルジは、まだ食べかけのパンを口にくわえながら、慌てて魔女の家を後にします。
子どもたちの足音が遠ざかると、アーサーが魔女に話しかけました。
「本当に、よろしいのですか? マチルダ様。」
「ヒッヒッヒ…ちょうどいい暇つぶしじゃないか。さてと…。」
魔女はそう言うと、何やら呪文をつぶやきながら、ゆっくりと空に手をかざしました。
すると、綺羅びやかな音とともに、キラキラと輝く光が山の方へ飛んでいきます。
それを見ていたアーサーは、ため息混じりに言いました。
「まったく…あなたという人は…。」
アーサーはやれやれと呆れた顔をしています。
三日後、ポルト・ルミナスの夜空に満月が昇りました。
そして翌朝――。
魔女が言っていた東の山に、ついに大きな虹がかかりました。その虹は、まるで街全体を包み込むかのように大きく、鮮やかな七色に輝いています。
「行こう! 本当に虹がかかってる!」
子どもたちは興奮し、着の身着のまま走り出しました。
『虹の谷』は、ポルト・ルミナスの東に位置する標高三百メートルほどの山にあります。谷へ続く道は急な斜面が続き、ゴツゴツした岩場も多く、一歩踏み外せば転げ落ちてしまいそうでした。
しかし、子どもたちは『七色の花』を見つけるという強い思いに突き動かされ、険しい山道をひたすら駆け上がっていきます。
ようやく東の山にたどり着いたとき、空にはまだ大きな虹がかかっていました。
「よし! 虹はまだ消えてない! 大丈夫そうだ!」
子どもたちは大喜びで、さらに奥へと駆け出しました。
子どもたちは険しい山道を登りながら、虹の谷を目指していました。
しばらく歩いていると、突然――。
ゴゴゴゴゴ……!
不気味な音が足元から響き、地面が大きく揺れました。
「な、なんだ!?」
次の瞬間、巨大な岩が地面から隆起し、子どもたちの行く手を阻むようにそびえ立ったのです。
「こんなの今までなかったぞ……!」
突然の出来事に、子どもたちは驚き、混乱しました。
「引き返すのだ。ここは我々の神聖な大地。人間が来るべき場所ではない。」
低く響く声に、子どもたちは凍りつきました。
なんと、目の前の大岩に目と鼻と口、そして手が現れたのです!
赤く光る目、白い煙を吐き出す歪んだ鼻、鋭い牙が並ぶ裂けた口。さらに、ゴツゴツとした長い爪の生えた手が岩の側面から伸びてきます。
岩の精霊は恐ろしい形相で子どもたちを睨みつけていました。
アルバートはその迫力に圧倒され、一歩後ずさります。ドルジはあまりの怖さに泣き出してしまいました。ヨハンは冷静に岩の精霊を観察し、その正体を見極めようとしています。
「お前たちはどこからやってきたのだ……?答えようによっては、食べてしまうぞ!」
岩の精霊の言葉に、子どもたちは恐怖で体が硬直しました。息をすることさえ忘れ、ただ立ち尽くすしかありません。
しかし、アルバートは勇気を振り絞り、答えました。
「僕たちは魔女に頼まれてこの山に来たんだ!七色の花を持ち帰るために!」
「七色の花だとぉ!? ワーハッハッハ!お前たちのような小さく弱っちい存在が七色の花だとぉ!? ワーハッハッハ!」
岩の精霊は、子どもたちを嘲笑うようにゲラゲラと笑いました。
「うるさい! 僕たちは友達を助けるために、その花が必要なんだ!絶対に諦めないぞ!」
……。
岩の精霊は何かを考えているようです。
「ならば、一つ賭けをしよう。お前たちが私の出すクイズに答えられたなら、ここを通してやろう。ただし、答えられなかったら、お前たちを食ってしまうぞ!」
アルバートは迷わず答えました。
「わかった!受けて立つ!さあ、問題を出せ!」
「では問題です。朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これなーんだ?」
子どもたちは顔を見合わせ、頭を悩ませました。
アルバートは記憶をたどりながら、「うーん、どこかで聞いたことがあるような……」と呟きました。ドルジは不安そうにヨハンの方を見つめます。
すると――。
ひときわ賢いヨハンが、自信に満ちた声で言いました。
「わかったぞ! 答えは人間だ!」
「ぐぬぬ……。なぜわかった!? ……まあいい。正解だ。通るがよい。ズゴゴゴゴゴ……。」
大岩は徐々に元の山へと戻り、辺りは再び静寂に包まれました。
「やったー!なんとか助かった!さすが博士!ありがとう!」
しかしヨハンは少し考えながら、こう言いました。
「うーん……。これは有名なクイズで、誰でも知ってるような内容なんだよね……。少し気になる。気をつけて先に進もう。」
「よくわかんないけど、行こうぜ!博士、さすがだな!」
アルバートはあまり深く考えない性格のようです。隣を見ると、食いしん坊のドルジはなにやらパンをかじっています。
こうして、子どもたちは虹の麓へと急ぎました。
しばらく歩くと、山のように巨大な木が、空を覆い尽くすようにそびえ立っていました。根元は数十人がかりでも抱えきれないほど太く、樹皮は深い緑色の苔で覆われています。
子どもたちがその木に近づいた瞬間――。
ぼんやりと淡い光が灯り、やがて輝きが増していきました。まるで長い眠りから覚めたかのように、その巨木はゆっくりと目を開けます。
燃えるような赤い光を放つ巨大な目が、じっと子どもたちを捉えました。口がゴボゴボと音を立て、鼻がヒクヒクと動き、最後に――。
太い枝がまるで手のように伸びてきたのです。
「お前たちは誰の許可を得て、この地にやってきた? ここは我々精霊の土地だ。早々に立ち去れ。」
闇の奥底から響くような、低く不気味な声が、子どもたちの耳に届きました。
「ごめんなさい!でも、僕らは七色の花をどうしても持ち帰らないとダメなんです! どうか、ここを通してください!」
アルバートは、礼儀正しい男の子でした。
「フハハハハハ! 七色の花だと!? フハハハハ!」
「何がおかしいんだ!」
アルバートは、精霊の態度に怒りを覚えたようです。
「おい、アルバート。まずは話を聞こう。」
ヨハンは、いつものように冷静でした。
「なるほど、では私の出す試練に合格できたのであれば、ここを通してもよい。」
「やってやろう! どんな試練なんだ!?」
「そこに小さな小川があるだろう? その川に、こうやって……。」
大木は、自身に絡みつくツルを器用に使い、小石を拾い上げると、川に向かって勢いよく投げつけました。
小石は水面を跳ね、トントントンと音を立てながら遠くへ飛んでいきます。
大木は、自信満々に言いました。
「フハハハ! すごいだろう! お前たちにこれができるかな?」
アルバートは、真剣な表情で小石を拾い上げ、川辺へと歩み寄りました。そして、全身の力を込めて小石を投げつけます。
――ヒュッ!
小石は白い閃光のように水面を駆け抜け、
トントントントン……!
精霊の投げた小石をはるかに超える距離まで跳ねていきました。
「これくらいなら、いつもやってるよ!」
アルバートは得意げに言いました。
「グヌヌヌヌ……! ならば通るがよい……。」
大木は悔しそうに唸ると、次第に光を失い、ただの静かな木へと戻っていきました。
「さぁ、行こう!」
アルバートが元気にそう言うと、ヨハンは眉をひそめながら言いました。
「うーん……なんだか引っかかる気もするけど……まぁ、いいか。」
そして、隣を見ると――。
ドルジはまだ何かをムシャムシャと食べていました。
「急ごう!」
子どもたちは元気よく走り出しました。
しかし、突然――
空が暗くなり、巨大な影が頭上を覆いました。
「なんだ!?」
驚いて見上げると、そこには――
翼を大きく広げた、恐ろしく巨大な鷲が宙を舞っていました。
「ここは通さん! 我が大地に何用だ? 貴様ら!」
大鷲は、鋭い爪とくちばしを光らせながら、子どもたちを威嚇しました。
「なんて大きさなんだ……!」
普通の鷲は大きくてもせいぜい3メートルほどですが、この大鷲はどう見ても10メートル以上はありそうです。
鋼鉄のように硬い羽根、太陽の光に反射して輝く鋭いくちばし。その巨大な翼が羽ばたくたびに、強烈な風が巻き起こり、子どもたちは思わず後ずさりました。
「わけあって、お前たちをこの先へ行かせるわけにはいかぬ! さっさと立ち去れ!」
アルバートは負けじと言い返します。
「僕たちはどうしてもこの先へ行かなくちゃいけないんです! 七色の花を持ち帰らなきゃならないんです! どうか通してください、大鷲さん!」
「ふむ、そういうことならば仕方がない。ならば、わしと勝負をしてもらおう!」
「勝負……?」
「そうだ! そこの岩の上で、わしと大食い対決だ!」
「ええっ!?」
ドルジは思わずギクリとしました。しかし、その口はすでにモグモグと動いており、何かを食べている最中のようです。
「い、いいけど……食材は何だい?」
「これだ!!」
ドサッ!!!
大鷲はおもむろに、山のようなあんぱんを目の前に積み上げました。
「もちろん、ミルクもある。さあ、やるのか、やらないのか。」
「おい、ドルジ! お前の底力を見せてやれ!」
アルバートがドルジの背中を叩くと、ヨハンも腕を組んでうなずきました。
「うん、あんぱんと牛乳の組み合わせは最高だからね! いいよ、大鷲さん! それじゃあ、勝負だ!」
ドルジは嬉しそうに、目を輝かせて言いました。
「1・2・3……ゴー!! レッツゴー!!!」
ドルジは、勢いよくあんぱんを次々と口に詰め込みます。牛乳をゴクゴクと飲み干し、さらにあんぱんを頬張る。まるで吸い込むようにたいらげていきました。
「うぐぐぐ……!」
大鷲は、ドルジの驚異的なスピードに目を丸くしました。
「な、なんという……!?」
「もぐもぐもぐ……ぷはっ! ごちそうさま!」
ドルジが満足そうに口をぬぐった瞬間――。
「ま、参った……! ここまでとは……!」
大鷲は悔しそうに羽をバサバサと広げ、空へと舞い上がりました。
「よし! 先を急ごう!」
子どもたちは、虹の麓を目指して走り出します。
夕暮れが迫り、夕闇が辺りを包み込む中、空には黒い雲が不気味な渦を描き、覆いかぶさるように広がっていました。
虹は輝きを失い、まるで細い糸のように、今にも消え入りそうなほど儚く揺らめいています。
消えゆく虹を前に、子どもたちの焦燥感は募るばかりです。彼らは息を切らし、足を棒にしながらも、虹に向かって必死に走りました。
しかし、どれほど近づいても、虹は一向に近づいてきません。まるで嘲笑うかのように遠ざかっていきます。
「いったいぜんたいどうなってんだ!あの虹に近づけば近づくほど、どんどん離れていってるように感じる!このままじゃぁ虹が消えちまう!」
アルバートは叫びます。
「やっぱりダメだったか……。」
その時、ヨハンが言いました。
「虹っていうのは、太陽の光が空気中の水滴に反射して見える現象だよ。つまり、実際にはそこに存在しないんだ。だから、いくら近づこうとしても、永遠にたどり着くことはできない。」
「なんだって!?ということは魔女さんに騙されたってのか!?くそっ!あの魔女め!」
アルバートは地面を蹴りつけ、怒りをあらわにします。
子どもたちは怒りを燃やし、踵を返すと、一目散に魔女の家へと駆け戻っていきました。
ドンドンドン!
勢いよく魔女の家の扉が叩かれました。
「ヒッヒッヒ……誰だい?」
「僕たちだ!」
子どもたちは怒りに燃えながら、魔女の家へと飛び込みました。
「ほう……それで、七色の花は見つかったんだろうね?」
「そんなものはなかったよ!」
アルバートが声を荒げます。
「魔女さん、僕たちを騙したんだね?」
「ヒッヒッヒ……! 何でも願いが叶う花なんて、あるわけがないだろうよ。ヒッヒッヒ!」
「ど、どうして! そんなひどいことをするんだ!」
アルバートの怒りが爆発しました。しかし魔女は、まるで子どもの駄々でも見るかのように、肩をすくめて言います。
「まぁまぁ、落ち着くんだよ、坊やたち。――お前たちの言う七色の花ってのは、これかい?」
魔女は薄暗い部屋の奥からゆっくりと歩み寄り、片手に握られたガラス瓶を差し出しました。
――瓶の中には、虹色に輝く花が入っています。
その花は、この世のものとは思えないほど美しく、妖しい光を放っていました。
「わぁ……! きれいだ!」
「こ、これが七色の花なんですね!」
子どもたちは目を輝かせました。
魔女はニヤリと笑い、続けます。
「そうさね、これが坊やたちの言う七色の花だよ。そして確かに、この花は願いを叶える魔法の花だ。――ただし、それには条件がある。」
「条件……?」
子どもたちはゴクリと唾を飲み込み、真剣な眼差しで魔女を見つめました。
「お前たちの叶えたい願いは何だったかね? ん?」
アルバートは迷うことなく叫びます。
「僕たちの大切な友達の目を治してほしいんです! それが、僕たちのたったひとつの願いです!」
「ヒッヒッヒ……ならば、この中の誰かが、一生光を失う覚悟はあるかい?」
「なっ……なんだって!?」
魔女の言葉に、アルバートは目を見開きました。
ドルジは恐怖で震え、ヨハンは冷静を装いながらも、内心、大きな衝撃を受けていました。
「ヒッヒッヒ……! この花の本当の名は 『憐れみの花』 と言ってね。誰かの不幸を、誰かが肩代わりすることで願いが叶う、まさに魔法のような花なんだよ。ヒッヒッヒ……!」
「そ、そんな……!」
アルバートとドルジは事態を理解しきれず、困惑しています。
しかし、ヨハンだけはすぐにその言葉の意味に気付きました。
「……そういうことでしたか。」
彼は魔女を鋭く睨みつけ、低い声で言いました。
「あなたは本当にひどい人だ。こんな条件、飲めるはずがない!」
「アルバート、帰るぞ!」
「ヒッヒッヒ……! 得るものがあれば、失うものがある。これが、この世の理だろうよ、坊やたち! 当然のことじゃあないさね! ヒッヒッヒ……!」
「帰ろう、アルバート。こんな馬鹿げた話、鵜呑みにする必要はない!」
しかし、アルバートは立ち尽くしたまま、拳を握りしめています。
「……博士、ドルジ。」
深く息を吸い込み、彼は決意のこもった目で言いました。
「僕が犠牲になる。」
「なっ!?」
「僕が光を失えば、アンナは目が見えるようになるんだろ? だったら、僕がそうする!」
「バカ言うな!」
ヨハンは怒りに震えています。
「何を考えてるんだ、アルバート! よく考えろ!」
「もう決めた!」
アルバートの声は、これまでにないほど強い意志を持っていました。
「こんなことをして、あの子が喜ぶとでも思っているのか!? 逆に彼女を傷つけるだけだぞ!」
「博士、ドルジ、よく聞いてくれ。」
アルバートは二人をまっすぐに見つめ、静かに語ります。
「彼女は、まだ僕たちの顔を知らない。でも、僕たちは彼女のことを知っている。そして、この美しい街も、海も、山も、湖も――全部知っている。」
「……それって、不公平じゃないか?」
「だから、僕は彼女に、この世界を見せてあげたいんだ。」
「馬鹿野郎!!」
ヨハンの怒声が響きます。
「カッコつけてんじゃない!! 僕はそんなこと、絶対に許さないぞ!!」
「アルバート、気持ちはわかるけど……」
ドルジは泣きそうな声で言いました。
「でも、これはダメだよ……。なんだか怖いよ……。」
ドルジは早く家に帰りたいようです。
「博士、ドルジ……ありがとう。」
アルバートは微笑みます。
「君たちと友達になれたこと、心から誇りに思うよ。」
「ヒッヒッヒ……さて、どうするんだい? 早く決めておくれ。」
アルバートは、ゆっくりと魔女の方を向きます。
「魔女さん、僕の光を彼女に与えてください。」
「……本当にいいんだね? アルバート。」
魔女の声が、静かに響きます。
「お前は、二度と光を取り戻せない。大好きなママやパパの顔も見れない。友達の顔も、美しい街も、海も、森も、湖も――すべてを失うことになる。それでも、いいんだね?」
「……あぁ。それでいい。」
アルバートの決意は揺るぎませんでした。
「……そうかい。」
魔女は、瓶の中の花をアルバートにそっと手渡しました。
「では、この花を持ち、あの子の無事を祈るといい。目が覚めたとき、お前の光は失われているだろう。」
「この頑固者がー!!」
ヨハンはそう叫ぶと魔女の家を飛び出しました。
ドルジは、おろおろと立ち尽くしたままです。
そして――
それからしばらくして、アルバートは光を失っていました。
こうしてアンナは光を取り戻したのです。
子どもたちは急いでアンナの元へ向かいました。
病院に着くと、廊下には人だかりができていて、ざわめきが広がっています。
「先生! 女の子の目が……!」
「なんと! そんな馬鹿な……!」
看護師や医師たちが驚きの声を上げました。
アンナが静かにまぶたを開くと…
――目の前が、光で満たされていきます。
ぼんやりとしていた視界が、次第に鮮明になり、白い壁、明るい窓、心配そうに彼女を見つめる医師や看護師たちの姿が浮かび上がってきました。
「……見える。どうして……? 私の目が……治ってる!」
アンナの目から、喜びの涙が溢れました。
そこへ、子どもたちが駆けつけました。
ヨハンはアンナに近寄り、穏やかに微笑みます。
「はじめまして。僕がヨハンです。こっちがドルジ、そしてこちらがアルバート。はじめまして、かな?」
アンナは嬉しそうにみんなの顔を見渡し、はしゃぎました。
「ああ! まさか、あなたたちの顔が見られる日が来るなんて! ふふっ、想像していた通り、みんな優しそうな顔ね。」
しかし、ふと彼女は顔を曇らせました。
「ところで、アルバート……どうしたの? あなたの顔をもっとよく見せて。」
そう言いながら近づこうとすると、アルバートは一歩後ずさりました。
その表情には、深い悲しみが浮かんでいます。
「……アルバート?」
アンナは不安を覚えました。
すると、ヨハンが静かに口を開きます。
「実はね、アンナ。君が目覚める前に、アルバートが魔女に頼んで君の目を見えるようにしてもらったんだ。……その代償として、アルバートは自分の視力を失ってしまったんだよ。」
ヨハンの言葉が終わった瞬間、アンナの表情が一変しました。
怒りと悲しみが入り混じり、彼女は震える声で叫びました。
「……馬鹿! アルバート!!」
アンナは彼に駆け寄り、力いっぱい胸を叩きながら泣き叫びます。
「どうしてそんなことをしたの!? 私がそんなことをしてほしいだなんて、いつ言ったの!? 今すぐ魔女のところへ戻って、あなたの光を取り戻してきて!」
嗚咽混じりの言葉が途切れながらも、彼女は続けます。
「私は……あなたの笑顔が見たいのに……! こんなの、あんまりよ……!」
アンナはアルバートの顔にそっと手を伸ばし、視線を合わせようとしました。
しかし、アルバートの目は虚ろで、彼女の姿を見ることはありません。
「……ダメだよ、アンナ。」
アルバートは静かに言います。
「この花の効果は、一度きりなんだ。それに、これは僕が勝手にやったこと。君には関係のない話さ。」
その瞬間――
バチンッ!
鋭い音が病室に響き渡りました。
アンナは、涙を流しながら、アルバートの頬を思い切り叩きました。
「……よくも、そんなことを……!」
彼女は泣き崩れました。
「私に光が戻っても……あなたが失ってしまったら、意味がないじゃない……! この街も、海も、森も、湖も……あなたと一緒じゃなきゃ意味がないのに……!!」
堰を切ったように、アンナは声を上げて泣き続けました。
アルバートは呆然と立ち尽くし、ヨハンとドルジは顔を引きつらせています。
泣きじゃくるアンナの声が、病室に響き渡りました。
アーンアンアン!アンナは泣くのをやめません。
アンナの涙が、アルバートの持っていた花に落ちた瞬間――
パァーッ!
突然、花がまばゆい光を放ちました。
「な、なんだ!?」
子どもたちは目を丸くし、驚きのあまり飛び上がります。
虹色の光が病室全体を包み込み、壁や床に幻想的な影を落としました。おもちゃや絵本、点滴スタンドまでもが輝き、まるで夢の中にいるようです。
その時――
窓の外に、ひっそりと人影が現れました。
長い杖を持ち、窓枠に腰掛けた老婆――魔女が、にやりと笑っています。
ガラッ!
突然、病室の窓が勢いよく開き、外から強い風が吹き込みました。カーテンが大きく揺れ、子どもたちの髪を乱します。
「どっこいしょっと。」
――魔女が、ほうきに乗って四階の窓の外に現れたのです。
「邪魔だ邪魔だ! そこをどきな!」
甲高い声を響かせながら、魔女は杖を振り回します。
「ほぉ……こりゃあ、面白いねぇ。」
虹色の光を放つ花を見つめ、しばらく沈黙する魔女。
やがて、ジロリと鋭い目を向け、アンナをまじまじと見つめました。
「お前が……アンナだね?」
「はい、おばさま。あなたのことは、アルバートたちから聞いております。」
アンナは魔女の鋭い視線に怯むことなく、真っ直ぐに見つめ返しました。
「ふん、生意気な娘だね。」
魔女は鼻を鳴らし、杖を軽く地面に突きます。
「アンナ、お前の望みを言いなさい。」
その言葉を聞いて、アンナはこらえていた涙が堰を切ったように溢れ出します。
「魔女様……どうか、アルバートに光を戻してください!」
アンナは必死に訴えます。
「私は、ほんの一瞬でも世界を見ることができて、本当に幸せでした……でも、アルバートが光を失ったままでは、私は幸せになれません!」
アンナは涙を拭いながら、懇願するように魔女を見上げました。
グスン……グスン……
彼女のすすり泣きが、静かな病室に響き渡ります。
「……あー、わかったわかった。」
魔女は面倒くさそうに手をひらひらさせました。
「まったく、わたしゃ女の涙ってのが大の苦手でねぇ。」
「さぁ、その花を渡しなさい。もともと、それは私のものなんだよ。」
アルバートは、静かに持っていた花を魔女へと手渡しました。
魔女は、憐れみの花をそっと掲げ、子どもたちを見渡しました。
「坊やたち。――この花は、ただの花じゃない。力の源なのさ。」
そう言うと、魔女が手をかざしました。
パァァァ――ッ!
花がまばゆい光を放ち、病室全体を包み込みます。
「うわぁ……!」
子どもたちは目を見開き、息をのみました。
光が収まると――
病室は魔法の世界に変わっていました。
天井からは、キラキラと輝く星が降り注ぎ、壁には色とりどりの花が咲き乱れています。妖精たちが空を舞い、ふしぎな生き物たちが楽しそうにダンスを踊り、美しい歌や音楽を奏でています。テーブルの上には、食べきれないほどのお菓子やごちそうが並んでいました。
「すっすげぇー!ちょうどお腹が空いてたんだよね!」
ドルジは歓声をあげ、すぐにお菓子に手を伸ばしました。
その時――
「あっ!」
病院の看護師や医師たちが声を上げました。
魔女が、光に包まれながらみるみる若返っていくのです。
しわだらけだった肌は透き通るように白くなり、長い髪が輝きを取り戻していきます。光が収まった時、そこに立っていたのは――
それはそれは美しい女性でした。
金色の光を宿す瞳は、威厳と慈愛を湛え、太陽のように凍てつく激しさと、海のように深く満ちる愛を併せ持つかのような、温もりある微笑みをたたえています。
「まっ、まさか……!貴女様は……!」
たまたま居合わせた街の長老が、目を見開き、口をあんぐりと開けました。膝をガクガクと震わせ、地面にへたり込みます。
魔女――いや、美しき魔法使いは、子どもたちを見つめ、優しく微笑みました。
「アルバート、ヨハン、ドルジ。よくがんばりましたね。」
そして、アンナに視線を向けます。
「アンナ――あなたは、とても良い友達を持ちましたね。」
その声は、どこまでも温かく、けれどどこか淋しげでした。
「……仕方がありません。一度だけ、あなたたちの願いを叶えましょう。」
「ただし――一度だけです。 本来、世界はそのようにはできていないのですから。」
彼女がそう言うと――
パァァァ――ッ!
ふたたび、まばゆい光が病室を包み込みました。
「……!!」
アルバートが驚いて声をあげます。
「……あれ? あれっ!? 見える! ヨハン! ドルジ! 君たちの顔が見えるよ!!」
「アルバート!!」
アンナは大喜びでアルバートに飛びつきました。
「よ、よせよ、アンナ! ちょっ……まじでまずいって……!」
アルバートは真っ赤になり、もじもじと照れくさそうにしています。ヨハンとドルジは、少しムッとした顔で二人を見ています。
「やれやれだねぇ……。」
ふと気づくと、さっきまでの美しい女性は、再び老婆の姿に戻っていました。
「せっかく力が戻ったってのに……こりゃ、また千年くらい待たないとダメだねぇ。」
魔女は肩をすくめ、ほうきにまたがると、ふぅとため息をつきました。
「さてと。もう疲れたから帰るよ。」
すると、子どもたちに向かって、こう言いました。
「まったく、騒がしいったらありゃしない。もう二度と来るんじゃないよ。」
そう言いながらも、彼女の唇にはどこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいました。
魔女は、カラスのアーサーを肩に乗せると――
ヒュウゥゥ……!
ほうきにまたがり、夜空へと舞い上がりました。
その姿は、満月の光に照らされ、次第に小さくなっていき――
やがて、夜空に溶け込むように、すっと消えていきました。
「……ありがとう。」
窓辺に立つヨハンが、小さな声でつぶやきました。
アンナはわんわん泣き、アルバートは困り果て、ドルジはお菓子に夢中になっています。
ヨハンは、一人静かに窓から夜空を眺めていました。
魔女の家の暖炉では、薪がパチパチと心地よい音を立てながら燃えていました。
橙色の光がゆらゆらと揺れ、部屋の隅々を柔らかく照らしています。
窓の外には、澄み渡る夜空に月が輝き、静かな光を落としていました。
「……マチルダ様。」
低い声が、静寂を破ります。
アーサーが、黒曜石のような深い瞳で彼女を見つめていました。
「なんだい?」
魔女は、暖炉の炎を見つめたまま答えます。
「一体、いつからお考えになっていたのですか?」
アーサーの問いに、魔女はゆっくりと目を閉じました。
そして――
まるで魔法が解けるかのように、彼女の姿が静かに変わっていきます。
金色の髪が流れるように輝き、透き通るような白い肌が、夜の闇の中で淡く光を放ちました。それは、神々しい美しさをたたえた女性――本来のマチルダの姿でした。
彼女はそっと目を開き、いたずらっぽく微笑みます。
「さぁ、なんのことかしらね?」
アーサーはそんな彼女を見て、小さく息を吐きました。
「まったく……。」
やれやれと首を振りながらも、その声にはどこか誇らしげな響きがありました。彼は静かに言葉を続けます。
「いつまでもあなた様のおそばに。」